トップページ/歴史/マップ/隠居の独り言/当山塞目録/仙台弁講座@/スタッフのペットの話
藩祖伊達政宗公が1601年(慶長6年)に着手した仙台城築城と「仙台城下の縄張り」から四百年を数える西暦2001年。今や仙台市は人口100万を越える東北の中枢都市に発展しました。その祖となる奥州仙台藩で政宗公は町割り、今でいう都市計画により仙台を広大な原野から見事な城下町へと発展させました。 現在の様相から当時の様子を伺うことは困難と思われますが、市内には古い歴史を持つ町名、地名、お寺が数多く残っております。そんな名前からも歴史を知ることが出来ます。
仙台には由緒ある町名を後世に残すために昭和52年から平成6年にかけて、市内88カ所に「辻標」が設置されました。その中でも米沢以来伊達家と共に移住した御用商人の町、御譜代町は 大町・肴町・柳町・立町・南町・荒町の6町。
専売特権として大町2丁目は古着。大町2,3,4丁目は絹布、木綿、小間物。大町5丁目は油。立町は米。肴町は肴、肴宿。南町は八百屋、荒物。柳町はお茶。荒町は麹が与えられたそうです。芭蕉の辻は多種に渡る商店が軒を連ね定例日に市が立ち一番の繁華街でした。
![]() |
![]() |
昭和30年代ごろ 従業員総出で飾り付けの準備 |
仙台の七夕は毎年雨が降る? |
仙台の七夕 七夕は陽暦・陰暦・月遅れと3通りありますが、仙台の七夕は例年8月6・7・8日の3日間と決まっています。青森のねぶた、秋田の竿灯と並んでみちのく3大祭りと称されます。陰暦7月7日の夜、牽牛・織姫のふたつの星が天の河を渡って相逢うという中国の伝説に由来する行事とされる、このお祭りには女の子は手芸が、男の子は手習いが上手になるにとの願いが込められていたといわれています。仙台七夕は戦後 特に昭和の後期になり 今日に見られる様な盛大な祭りになりました。 昭和30年代は小さな町内でも子供会手作りの七夕飾りや戸々の家でも飾った。HP管理者も大きいお姉さん、お兄さん達に混じって作った記憶があります。残念ながら最近は作っていないようです。 メイン通りの一番町や中央通りでは綺襴豪華な飾り付けがされ、商店街は人で埋め尽くされ、身動きが取れないくらいなので小さい頃は大人の足しか見えませんでしたが毎年ワクワク心待ちにしていました。最近はこの祭りを”静から動へ”の取り組みがなされ、定禅寺通りの動く七夕は年々 独特の趣向を凝らし華やかさを増しています。仙台では華やかな七夕が終わると秋風が立ち始め、みんな秋の収穫の事を考え始めます。 |
若林区木ノ下にある白山神社の氏子として長い縁を維持してきたのが国分町と二日町の人たちで、国分氏が仙台辺を領してきた国分侍の子孫といわれる。 伊達政宗が仙台に入って国分町に住居を与えられ住んだが、白山信仰の影響で鶏を口にしない風習があり、これを破ると火災を起こしたり病になるとも伝えられた。 これを知らずに、明治12年に東京から移って鶏鍋屋を始めた「シャモ長」の主人は、町の人が騒ぐのを聞いて驚き、白山神社にお詣りをして「文明開化の国々では、鶏を養生食物の第一としており、天子様も牛肉を食べる時代、お賽銭ははずみます」と拝み倒して、それから大繁盛になった。 明治12年3月の 仙台日日新聞に取り上げられた。 (田村 昭 編著 仙台珍談奇談より) |
仙台のお薦めリンク
仙台の古い写真/仙台映像資料館/仙台メディアボランティア/七が宿 白炭
仙台のお薦めライブハウス
サテンドール 2000