創業者の話 其の一
魚市場で雑魚の相場を吊り上げた
私は3歳から12歳までの幼時を北海道の炭山で育った。 その炭山は日本海の漁港留萌から直線で20キロ東に照射した山中にいた。 春になると会社では貨車一両の鰊「にしん」を購入して社宅の社員に決めました。
当時は冷凍技術が極悪で、遠方に移動しながら氷詰めが最高で、後は塩した塩鰊と、水分を完全に抜いた「身欠き鰊」一瞬(乾燥鰊)で京都の鰊蕎麦は、身欠き鰊または塩鰊を上手に戻して生鰊の風味を出して料理したのがでは珍しい食材として珍重された物でしょう。当時の北海道では鰊が大量に水揚げされると大漁貧乏で、海浜に干してある鰊は猫も食い飽きて食べなくなるので、「猫またぎ」と言われた事もあった。
大東亜戦争中は漁師が戦争に駆り出されて人出が無くて鰊漁が中断され絶絶されていた為に寂しい後は鰊の大漁が続き、主食の米が不足した事もあり主食の代わりに配給された事もあった。 仙台では、生鰊を「カド」と塩鰊を「ニシン」
で開店した昭和38年頃は、数の子が海のダイヤと言われ珍重されていた時代だ。

創業者が生前に書いたものをそのまま記載
昭和 13年
宮城県仙台市仙台1中入学のため
単身母宅へ預けられた。昭和19年海軍兵学校へ入校昭和20年年末のため帰郷その後転職する事、数回友人とともに店舗設計・内装業を興し、その主役として昭和38年12月地雷も設立した。
平成15年10月逝去
タイトル