創業者の話 其の二

「きんき」と笹蒲鉾

「その一つ」でご紹介しましたが、昭和13年に北海道の山の中から大都会の仙台に来ました。 その頃、近所の魚屋では店の表に炉を造って、おかみさんが魚の「すり身」を平たい竹串にペタペタ叩くいて木の葉型に形を整えた「すり身」を炉の炭火にかかざして焼いてそこを見てきました。 この風景は仙台市内中心の魚屋の店先で見られたものです。


話によりますと、仙台近海は大陸棚(200メートル未満の沿海)で獲れる鰈や平目ト漁が本体で、それらの鰈や平目は刺身材料として高価に販売出来ました。仲間で、頭ばかり大きくて身が少なく食べるところが無いと言われて嫌われていましたが、魚屋の店では少なくても我慢して忍びず骨を主張して身をすり身して「蒲鉾」として販売しました。 「地雷也」当初は鰊を焼いて提供し、当時は「海のダイヤ」と言って貴重な食べ物と言われた「数の子」が入っている確率が50%と言うところから焼き上がった鰊に「数の子」が有ると歓声を上げて喜び、白子が並んだお客様は次を楽しみにする等の話その中に鰊の他に安い素材を探していましたら「きんき」に行きました。 美味しい「笹蒲鉾」の材料まさかと思ったら「きんき」の焼き魚も美味しいはずと思い比較的大きめで身の厚さ良い「きんき」を炭火で焼いてみましたらその脂の乗った地域旨さを発見しました。


さらに食べた後の頭や骨を忘れるのはもったいない体でなければの発想が生まれ、味を付けてスープにしました、白炭の炎から遠赤外線効果で頼む、得とも言われる風味のあるスープになりました。


炭火を使って焼き物をまず、私共の炉がそろそろですが、最新建築法で店内にこれからの炉を建てるのは大変難しいと聞いております。

隠居プロフィール
大正15年
富山県宇奈月に生まれる。
昭和4年10月 
雨龍郡沼田村の炭坑社宅へ転居。
昭和13年   
宮城県仙台市仙台1中入学のため
単身叔母宅へ預けられた。
昭和19年   海軍兵学校へ入校
昭和20年   終戦のため帰郷
その後転職する事、数回友人と共に店舗設計・内装業を興し、その一環として昭和38年12月地雷也を設立した。

平成15年10月逝去


タイトル

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